友だちもいるし、予定もそれなりにある。それでも、帰り道や寝る前になると「なんだか自分だけ少し浮いている」「この先ずっと一人なのかもしれない」と胸の奥がひんやりする――そんな感覚は、特別なものではありません。ただ、その違和感に名前がつかないまま、「人に恵まれているのに、こんなこと感じる自分はわがままだ」と自分を責めてしまうと、孤独感はさらに濃くなっていきます。この記事では、「友だちはいるのに、いつもどこか孤独」という感覚の正体を、いくつかの断面からゆっくりほどきながら、「じゃあ、明日から何を少しだけ変えてみると楽になるか」を一緒に考えていきます。大きく人生を変える必要はありません。会話の中に小さな本音を一言足してみること。ひとり時間の過ごし方を少しだけ組み替えてみること。自分の心の声をメモに書きとめてみること。そんな「小さな一手」を積み重ねることで、同じような日々の中でも、少しずつ見える景色が変わっていきます。全部を読まなくても、気になるところだけ、今の自分に必要そうなところだけ、つまみ読みしてもらえたらうれしいです。
「友だちはいるのに、どこか孤独」の感覚をそのまま認める
まずいちばん最初にしてほしいのは、「この感覚をなかったことにしないであげる」ということです。
友だちもいる。
LINEを送れば返事をくれる相手もいる。
休日に一緒に出かける人もいる。
客観的に見れば、「人間関係に恵まれている」と言っていい状態かもしれません。
それでも、帰り道の電車の窓に映る自分の顔を見た瞬間や、部屋の電気を消してベッドに横になったとき、胸の奥がすっと冷えて「なんだか、自分だけ少し外側にいる気がする」と感じてしまうことがある。
このとき、多くの人は真っ先に「自分のほうを疑う」方向に向かいます。
- こんなに人に恵まれているのに、孤独だなんて感じる自分はわがままなんじゃないか
- 友だちに失礼だから、こんな気持ちは考えないようにしなきゃ
- 「孤独だ」なんて言ったら、同情を求めているみたいでイヤだ
そうやって、心の中で浮かんできた感覚にふたをして、「感じなかったこと」にしようとしてしまう。
でも、感情は「なかったことにされる」と、消えてくれるどころか、形を変えて残り続けることがよくあります。
- なぜか人と会ったあとに、ひどく疲れる
- 大勢でいて笑っているのに、どこか自分だけ透明な気がする
- 予定が詰まっているほど、ふいに空っぽになったような感覚が押し寄せてくる
こうした違和感は、「あなたが弱いから」でも、「人付き合いが下手だから」でもありません。
むしろ、「今の自分の心の状態を、ちゃんと教えてくれているサイン」として現れている、と見ることもできます。
たとえば、熱が出たときに、「熱なんてなかったことにしよう」と無理やり動き続ければ、いずれもっと体調を崩してしまうように。
心の世界でも、「感じてはいけない」と自分に言い聞かせるほど、感情はこじれやすくなります。
ここで、ほんの少しだけ向きを変えてみます。
友だちがいるのに、どこか孤独だと感じている。
そう感じている自分が、たしかに今ここにいる。
まずはそれを、そのまま事実として認めてあげる。
「正しい/間違っている」「贅沢/贅沢じゃない」と判断する前に、
- そう感じてしまうほど、今の毎日を一生懸命生きてきたこと
- その違和感にちゃんと気づいているだけの、感受性の豊かさがあること
そこまで含めて、まるごと「今の自分なんだ」と扱ってあげること。
ここを出発点にしないと、「孤独を何とかしよう」と動こうとしたときにも、どこかで自分を責め続ける形になってしまいます。
自分を責めながら人とつながろうとすると、
- 相手の反応を「足りない」「冷たい」と受け取りやすくなる
- ちょっとしたズレにも、「やっぱり自分はダメなんだ」と結論づけてしまう
- 相手の善意や好意を、まっすぐに受け取れなくなる
という悪循環になってしまうことがあります。
だからこそ、最初の一歩はとても静かで地味ですが、
「友だちがいるのに孤独だと感じる自分」を、
「ダメな存在」ではなく、「今、少し疲れている・足りないものに気づき始めた存在」として扱い直すこと。
「こんなふうに感じる自分もいていい」と思えるようになると、
このあと考えていく「できること」も、少しずつ心に入ってきやすくなります。
ここまで読んで、「あ、これはまさに自分のことかもしれない」と感じたとしたら、
それはすでに、あなたの中で「見て見ぬふりをしない」という選択が始まっている、ということでもあります。
その視点を大切にしたまま、次に進んでいきます。
目に見えるつながりと、目に見えないつながり
「友だちもいるのに、どうしてこんなに孤独なんだろう」という疑問をほどいていくには、
まず「つながり」という言葉の中身を、少し丁寧に見てみる必要があります。
私たちはふだん、「人とのつながり」と聞くと、わりと目に見えやすいものを思い浮かべがちです。
- LINEやDMのやりとりの頻度
- 週末に誰かと会う予定の有無
- 一緒にごはんに行く相手の数
- SNS上のフォロワーや「いいね」の数
これらは、数字にも表しやすく、「他人と比較しやすい」つながりです。
予定表を見れば、たくさんの予定が入っているかどうかが一瞬でわかるし、
SNSを開けば、自分がどれくらい他人とつながっているように見えるかを、瞬時に把握できます。
一方で、「目に見えないつながり」というものもあります。
これは、数字では測りにくいものです。
たとえば──
- この人の前なら、少し情けない自分を見せても大丈夫だと思える感覚
- 気まずい沈黙が流れても、「何か話さなきゃ」と焦らずに済む居心地のよさ
- 相手に話したあと、「分かってもらえた」とほっと胸の奥が緩む感じ
- たとえしばらく連絡を取らなくても、「関係がゼロになるわけじゃない」と思える安心感
こういったものは、スケジュール帳には書かれていません。
SNSの数字にも表れません。
でも、人が「孤独かどうか」を感じるとき、一番強く影響しているのは、むしろこちら側のつながりです。
少し極端な例で考えてみます。
- 予定はびっしり、毎週誰かと会っている
- グループLINEもいくつも入っていて、スマホは一日中通知が鳴っている
それでも、
- 本音を話せる相手が思い浮かばない
- 自分が弱っているときに、「今、つらい」と送れる人がいない
- 「この人に嫌われたら終わりだ」と思う相手ばかりで、安心感より緊張感のほうが強い
こういう状態であれば、「目に見えるつながり」は十分にあっても、
「目に見えないつながり」は、とても少ないかもしれません。
逆に、
- 会う相手の数は多くない
- 連絡頻度もそこまで高くない
けれど、
- いざというときに頼れる相手が1〜2人いる
- 会うたびに、「ああ、自分はこのままでもいいのかもしれない」と感じられる人がいる
こういう関係を持っている人は、予定表だけ見れば「そこまで人に恵まれていない」ように見えても、
心の中ではそこまで深い孤独を感じていないこともあります。
つまり、「友だちがいるのに孤独」という感覚は、多くの場合、
目に見えるつながりはそれなりにある。
でも、目に見えないつながりが、今の自分にとっては足りていない。
というギャップから生まれている、と考えられます。
もう少し具体的に言えば──
- 「人数」「頻度」「にぎやかさ」で測れる部分は満たされている
- でも、「安心感」「理解されている感覚」「居場所感」が薄い
このアンバランスさが、じわじわと胸のあたりに居座り、「どこか孤独だ」という感覚になっていきます。
ここで大事なのは、「目に見えるつながり」が悪いわけではない、ということです。
雑談をして笑い合える相手がいることも、気軽に飲みに誘える人がいることも、
その場の楽しさや、日々の張り合いにつながる大切な要素です。
ただ、それだけでは満たされない部分が、自分の中に確かに存在している。
その事実に気づき始めているからこそ、「友だちはいるのに」と前置きをしながらも、孤独を感じてしまうのです。
「目に見えるつながり」と「目に見えないつながり」は、どちらか一方だけあればいい、というものではありません。
どちらも、それぞれの役割を持っています。
- 目に見えるつながりは、日常のにぎやかさや刺激、情報交換を支えてくれる
- 目に見えないつながりは、自分が自分でいていいという感覚、弱さを差し出しても大丈夫だという安心を支えてくれる
あなたが今感じている孤独さは、
「目に見えるつながりはあるけれど、目に見えないつながりのほうを、もう少し増やしていきたい」
という、心からの静かなリクエストなのかもしれません。
このあと続く章では、
- その「目に見えないつながり」が足りなくなる背景に、どんなパターンがあるのか
- そして、今日からできる小さな一歩をどうやって積み重ねていくのか
を、さらに細かく見ていきます。
まずは、「自分に足りないのは“友だちの数”じゃないのかもしれない」という視点だけ、そっと心のどこかに置いておいてもらえたらと思います。
孤独感を分解して「パターン」として見る
ここからは、「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚の中身を、少しずつ分解していきます。
感情がしんどいとき、「全部ひっくるめて一つの大きな塊」として感じてしまうことが多いです。
すると、
- 何がつらいのか自分でもよく分からない
- とにかく全部がイヤな気がしてくる
- 解決策も「環境ごと変えるしかない」と極端な方向に飛びやすい
という状態に陥りがちです。
ここで、孤独感をいったん「パターン」として見直してみます。
これは、「原因をひとつに決めつける」というよりも、
自分の中で、どんな要素が混ざり合って今のしんどさを作っているのか
ざっくり地図を描いてみる
くらいのイメージです。
たとえば、こんな4つの要素で考えることができます。
- 「分かち合いたいこと」が分かち合われていない
- 「役割としての自分」と「本音の自分」にギャップがある
- 「みんなはちゃんとしている」というイメージとの比較で、自分を低く見てしまう
- 心と体の疲れで、「つながりを感じる余裕」そのものが削られている
どれか一つだけ、ということはあまりなくて、
多くの場合はいくつかが重なり合っています。
たとえば──
- 表向きはよく笑って話せるけれど、本当に不安なことは話せていない(①)
- いつも聞き役で、しっかりした自分ばかり見せてしまう(②)
- SNSで「仲良しそうな人たち」を見ては、「自分の関係は薄いのかも」と感じてしまう(③)
- 睡眠不足と仕事の疲れで、そもそも楽しいはずの時間を楽しむ余裕がない(④)
…といった具合です。
ここで大事なのは、「あ、自分は全部当てはまるからダメだ」と落ち込むことではなく、
「ああ、自分の孤独さには、こういう要素が含まれていたのか」
と、状態を少し客観的に眺め直せるようになることです。
地図があれば、いきなりゴールに到着できなくても、
- 今日はこの辺りを少し整えてみよう
- 次の一週間は、この部分だけ意識してみよう
と、「小さな手当て」をしやすくなります。
この先の章では、この4つのうち、
- 「分かち合いたいことが分かち合われていない」
- 「役割としての自分と、本音の自分のギャップ」
の2つを、まずじっくり見ていきます。
読みながら、「これは自分に近い」「ここは違うかも」と、心の反応を観察してみてください。
それだけでも、「自分が何にいちばん傷ついているか」が、少し浮かび上がってきます。
「分かち合いたいこと」が分かち合われていないとき
孤独感のなかでも、じんわりと長く続きやすいのが、
この「分かち合いたいことが分かち合われていない」という状態です。
一見すると、人付き合いはうまくいっているように見えます。
- 一緒にごはんに行けばよく笑える
- 好きなドラマや音楽の話で盛り上がれる
- お互いの近況もそれなりに話している
でも、ふとした瞬間に、心のどこかでこんな声がします。
「本当に話したいことは、まだどこにも出せていない」
たとえば、こんな場面が思い当たるかもしれません。
- 仕事で将来が不安なとき、表向きは軽い愚痴だけ話して、「まあなんとかなるよね」と笑ってしまう
- 家族との関係で深く傷ついているのに、「うちも色々あってさ」とサラッと流してしまう
- 恋愛で本当はかなりしんどい状況なのに、「ネタっぽく話したほうが場が盛り上がる」と軽く扱ってしまう
相手が悪いわけではないし、その場が嫌なわけでもない。
むしろ、「楽しかった」と感じることさえある。
それでも、帰り道にひとりになった瞬間、
- さっき話さなかった部分が、心の中でもくもくと膨らんでくる
- 「自分の一番大事なところは、結局どこにも居場所がない」と感じてしまう
そんな感覚になることがあります。
なぜ、本当に話したいことを出せなくなるのか
では、なぜ「分かち合いたいこと」を口に出せなくなるのでしょうか。
そこには、いくつかのよくある理由があります。
1. 「重いと思われたくない」という怖さ
一つは、とても分かりやすいものです。
- 空気を重くしたくない
- 相手に「扱いづらい人」だと思われたくない
- 「めんどくさい」と思われて距離を置かれるのが怖い
こうした怖さがあると、「話したほうが楽になるかもしれない」と頭では分かっていても、
口がうまく動いてくれません。
実際、どこまでなら話しても大丈夫かは、相手との距離感や相性にもよります。
だからこそ、「全部話す」か「一切話さない」かの二択になってしまうと、余計に苦しくなります。
2. 自分でも気持ちが整理できていない
もう一つの理由は、実はとても大きなものです。
「自分でも、何に傷ついているのかよく分からない」
という状態です。
- モヤモヤするけれど、うまく言葉にできない
- 説明しようとすると、「結局自分が悪いだけ」と思えてきてしまう
- 話しながら泣いてしまいそうで、それが恥ずかしい
こんなふうに、「言語化のしづらさ」があると、誰かに話そうとすること自体がハードルになります。
この場合、「誰かに話せていない」というより先に、
「自分自身と、まだ分かち合えていない部分がある」
とも言えます。
3. 「こんなことで悩んでいる自分」を認めたくない
そして、少し意外かもしれませんが、
- 自分の弱さや幼さを、誰よりも自分が受け入れられていない
ということもよくあります。
たとえば、
- 友だちの結婚や妊娠に、素直に喜べない自分
- 仕事でうまくいっている人を見て、心のどこかで妬んでしまう自分
- 親やパートナーに対して、「本当はすごく怒っている」自分
こうした感情を認めるのは、とても勇気が要ります。
「そんな自分は嫌だ」と感じてしまうと、自分自身の目からもその気持ちを隠したくなり、
結果として、誰にも分かち合えないまま心の奥に押し込められていきます。
「話せる相手がいない」の前にできること
ここまで読むと、
「結局、自分には本音を話せる相手がいないから孤独なんだ」
と感じるかもしれません。
たしかに、「安心して話せる相手がいること」は、とても大きな支えになります。
でも、その前にできる小さなステップが一つあります。
それは、
自分の中にある「分かち合いたいこと」を、まずは自分自身と分かち合う
というステップです。
具体的には、ノートやスマホのメモを使って、こんなふうに書き出してみます。
- 今、誰かに本当は聞いてほしいことは何か
- 「〇〇さんのこと、素直に喜べなくて苦しい」
- 「仕事でこういう評価を受けて、落ち込んでいる」
- 「家族との関係で、ずっと心に引っかかっていることがある」
- それについて、どんな感情が動いているか
- 悲しい、悔しい、さびしい、妬ましい、怖い、情けない、など
- その気持ちを誰かに話そうとしたとき、何が一番怖いか
- 引かれるのが怖い
- 真剣に聞いてもらえないのが怖い
- 「考えすぎだよ」と軽く扱われるのが怖い
ここで大事なのは、「きれいな気持ちだけを書こう」としないことです。
「こんなこと思っているなんて知られたら嫌われる」と自分が感じている部分ほど、
実は、孤独感を育てている大きな要素になっていることが多いからです。
ノートに書いたからといって、現実の人間関係がすぐに変わるわけではありません。
それでも、
- 自分が何を分かち合いたがっているのか
- どこにいちばん痛みがあるのか
が少し見えてくるだけで、
「自分の孤独には、ちゃんと理由があったんだ」
と理解できるようになります。
そうすると、「友だちがいるのに孤独だなんて、自分はおかしい」という自己否定から、
「自分は、まだここを誰とも分かち合えていないんだ」という、もう少し現実的な把握に変わっていきます。
少しだけ、話す「深さ」を変えてみる
自分の中で整理が少し進んできたら、
信頼できそうな人との会話の中で、「話す深さ」をほんの少しだけ変えてみる、という選択も出てきます。
- いつもは明るくネタっぽく話している話題に、感情を一行だけ足してみる
- 例:「あのときは笑って話したけど、実はけっこう落ち込んでたんだよね」
- 苦手な気持ちを、少しだけそのままの言葉で出してみる
- 例:「本当は、ああいう場ってけっこうしんどくてさ」
- 「わかってほしい」というより、「こう感じてる自分がいる」と共有してみる
ここでのポイントは、
「相手に分かってもらうこと」をゴールにしすぎない
ことです。
もちろん、分かってもらえたらうれしい。
でも、それ以上に大切なのは、
- 自分が本音を少しだけ外の世界に出してみる
- その結果どう感じたかを、自分で確かめてみる
という経験そのものです。
相手の反応があたたかかったら、その人は「分かち合えること」を増やしていける相手かもしれません。
もし反応が薄かったり違和感を覚えたら、「この人とは、今はこの深さまでなんだな」と距離感の目安になります。
どちらに転んでも、
「自分が何を分かち合いたいのか」を自覚できていること自体が、孤独感を少しずつほどいていく
ことにつながります。
「役割の自分」が前に出すぎるとき
「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚の裏側には、
しばしば「役割としての自分」が前に出すぎていて、「本音の自分」がどこにも居場所を持てていない、という状態があります。
たとえば、こんな場面はないでしょうか。
- 気づいたらいつも聞き役になっている
- グループの中で「しっかり者」「ツッコミ役」「盛り上げ役」など、何らかの“ポジション”を担ってしまう
- 相談される側にはなりやすいのに、自分の話をしようとするとタイミングを失ってしまう
その場はそれなりに楽しいし、相手からも感謝される。
でも、家に帰って静かになったとき、ふとこんなことを思うかもしれません。
「今日、自分の話ってほとんどしてないな」
「あの子たちは、自分の弱さをさらっと出せているのに、自分はずっと“しっかりした人”を演じていた気がする」
この「役割の自分」と「本音の自分」のギャップが大きくなっていくと、
つながっているはずの時間の中で、逆に「自分だけが少し遠くにいる」ような孤独さが生まれます。
役割は、もともと「生き延びるための工夫」だった
ここで、少し自分に優しい見方をしてみたいところです。
「役割の自分」が生まれるのは、多くの場合、
過去のどこかで「そのふるまいが一番安全だったから」です。
- 子どものころ、家族の空気を読むのが上手な子どもだった
- クラスの中で「おもしろいことを言える子」でいると、いじめられずに済んだ
- 真面目でしっかり者でいると、大人から褒められた
そんな経験を積み重ねるうちに、
「こう振る舞えば、場がうまく回る」
「こうしていれば、嫌われずに済む」
という感覚が身についていきます。
それは、あなたが無意識のうちに身につけてきた、高度な「生き延びるための工夫」です。
だから、「役割の自分=悪いもの」だと切り捨てなくて大丈夫です。
ただ問題は、大人になって環境が変わったあとも、その役割だけが前に出続けてしまうときです。
本当は、
- 「今日は落ち込んでいるから、あまり盛り上げ役をやりたくない」
- 「誰かに話を聞いてほしい側にまわりたい」
という日もあるはずなのに、いつものクセで「しっかり対応してしまう」。
その「がんばり」が積み重なるほど、心の中のどこかで、こんな声が響いてきます。
「自分がここにいるのは、『役に立っているから』なだけなんじゃないか」
「役に立てなくなったら、この人たちは自分のそばにいてくれないのかもしれない」
この不安が強くなると、
人と一緒にいるのに、同時にものすごく孤独、という状態が生まれます。
「役に立つ自分」と「ただ存在しているだけの自分」
ここで一度、自分の中の二人を想像してみます。
- ひとりは、「役に立つ自分」
- 場の空気を読んで振る舞える
- 相手に合わせて会話を組み立てられる
- 聞き役にもなれるし、相談に乗ることもできる
- もうひとりは、「ただ存在しているだけの自分」
- 何も話題が出てこない日もある
- 元気が出ない日もある
- ちょっとくだらないことを真剣に考えていたりする
多くの場面で前線に出ているのは、おそらく「役に立つ自分」のほうです。
それはそれで、とても頼もしい存在です。
でも、「ただ存在しているだけの自分」が、いつまでも後ろのほうに押し込められたままだと、
- 自分は役に立っているときしか、ここにいて良くない気がする
- 何もできない自分は、この人たちの前に出しちゃいけない
という思い込みが強くなっていきます。
そして、この「ただ存在しているだけの自分」が、
実は一番「誰かとつながりたい」と願っている部分だったりします。
「役割をやめる」必要はない
ここで誤解したくないのは、
「役割を完全にやめて、本音だけで生きよう」
という話ではない、ということです。
- 職場での自分
- 家族の前での自分
- 長い付き合いの友人の前での自分
それぞれの場で、「ある程度の役割」を使い分けるのは、ごく自然なことです。
社会で生きていくうえで、それ自体は大切なスキルでもあります。
大事なのは、
どこか一つでいいから、「役割を少しゆるめていい場所」を持つこと
です。
- いつも聞き役になっているグループの中に、一人だけでも「こちらの弱音を少し出せる相手」を探してみる
- オンライン上でもいいので、「ちゃんとした話をしなくていい場所」を見つける
- ノートや日記の中でだけでも、「役に立たない自分の話」をちゃんと書いてあげる
いきなり人間関係をガラリと変える必要はありません。
ただ、「どこでも100%役割モード」でいると、自分がすり減っていきます。
「今日は少し、役割をゆるめてみる」という選択
具体的に、今日からできる小さな実験をいくつか挙げてみます。
- グループの中で、あえて一歩引いてみる
- いつもなら率先して話題を振るところを、今日は「聞いているだけ」にしてみる
- 相手が話したとき、「うん、それ大変だったね」と感想だけ返し、自分からさらに話題を広げようとしない
- 相談されたとき、「すぐに答えを出さない」
- いつもならアドバイスをするところを、「それ、どうしたいって感じてる?」と相手の気持ちを聞くだけにしてみる
- 自分が解決役を背負い込みすぎないよう、意識してブレーキをかけてみる
- 自分の話を少しだけ増やしてみる
- いつも相手の話を聞く流れになっているなら、「実は最近、こっちもさ…」と一言だけ自分の近況を足してみる
これらはどれも、ごく小さな変化ですが、
「自分は常に誰かの役に立っていなきゃいけないわけではない」という感覚を、少しずつ体に思い出させてくれます。
もし、こうした変化に対して、
- 相手が拍子抜けしたような顔をする
- 「どうしたの、今日元気ないね」と言われる
ことがあるかもしれません。
それは、今までの「いつものあなた」と少し違うからです。
そのとき、「やっぱり自分は役割をこなさないといけないんだ」と元に戻すのではなく、
「今まで、どれだけ『期待に応える自分』でいようとしていたか」
に気づくきっかけにしてみてもいいかもしれません。
役割に応える力は、あなたの大切な一面です。
でも、それだけが全てではありません。
「何もしていない自分」「弱っている自分」「ぐだぐだしている自分」も含めて、
誰かと一緒にいていいのだ、という経験が、孤独感を少しずつ溶かしていきます。
「みんなはちゃんとしている」というイメージとの付き合い方
孤独感を強くするもうひとつの要素が、「比較」です。
とくに、頭の中にある「みんな」という存在との比較です。
- SNSで、楽しそうな写真や充実した報告を見たとき
- グループLINEで、自分以外のメンバーが盛り上がっているのを眺めているとき
- 友人同士の話の中に、自分の知らない思い出が出てきたとき
そんな場面で、胸の奥にひゅっと風が吹き込むような感覚がしたことはないでしょうか。
「ああ、この人たちの世界の中心に、自分はいるわけじゃないんだな」
「みんなはちゃんとつながっているのに、自分だけ外側にいる気がする」
ここで厄介なのは、「みんな」という言葉が指しているのが、
「実在する誰か」ではなく、「頭の中で作られた、大勢のイメージ」
であることが多い、という点です。
「みんな」は、いつも少し脚色されている
たとえば、SNSに流れてくるのは、
- 盛り上がった瞬間の写真
- 特別な日の出来事
- 自分でも「これは見せたい」と選んだ一コマ
がほとんどです。
その裏にある、
- なんとなくうまくいかなかった日
- 誰とも会わず、一日中くたびれていた日
- 自分のダメさに落ち込んで、ひとしきり泣いた夜
といった時間は、画面にはあまり出てきません。
にもかかわらず、私たちは画面の向こうの人たちに対して、
- 友だちが多い
- 毎週のように誰かと会っている
- 親友と呼べる存在がいて、深い話をしている
- 将来の道もそれなりに見えている
といった「いいところ」を、自分で勝手に補ってしまいます。
そして、その「補いでできたイメージ」と、自分の日常を比べてしまいます。
「みんなはちゃんとつながっている」
「自分だけが、どこか中途半端で孤独」
この構図ができてしまうと、実際の人間関係をどれだけ広げても、
「みんな」に追いついた実感が得られません。
「みんな」と「わたし」を、いったん切り離してみる
この比較から少し距離を取るために、
一度、こんなふうに考えてみてもいいかもしれません。
画面に映っているのは、「その人の人生のごく一部」だけだ。
自分の人生の一部だけを切り取って並べたらどう見えるだろう?
もし、自分が「見せたい瞬間」だけを集めて投稿したとしたら──
- 気心の知れた人と笑っている写真
- おいしいものを食べたときの記録
- 仕事でうまくいった日のこと
そうした断片だけを見た人は、
あなたのことを「いつも楽しそうで、人間関係も順調そうな人」と感じるかもしれません。
でも、自分は知っています。
その裏にある、ため息や孤独な時間や、うまく言葉にできないモヤモヤを。
他人も同じです。
あなたが知らないだけで、その人にもきっと「画面には映さない時間」があります。
ここでのポイントは、
「だから、人の投稿なんて全部嘘なんだ」と切り捨てることではなく、
「自分が勝手に“みんな”という幻想を作り上げていたかもしれない」と気づくこと
です。
幻想と比べ続ければ、どれだけ人とつながっても「足りない」と感じ続けてしまいます。
だからこそ、「みんな」というあいまいな単語からいったん離れて、
- この友人は、自分にとってどういう存在だろう
- この人とは、どのくらいの距離感が心地いいんだろう
と、「具体的な一人ひとり」との関係に目を向けていくことが大切です。
「親友」や「群れること」へのイメージを見直してみる
もうひとつ、比較を苦しくさせる要素として、
- 「親友」と呼べる人がいない気がする
- 中高時代の友人たちが、今もグループで仲良くしているのを見ると、取り残された気がする
といったものがあります。
ここには、「理想的なつながりのかたち」のイメージが影響していることが多いです。
たとえば──
- 何でも言い合える親友が一人いることが、いちばん幸せ
- 長年同じグループで仲良くしていることが、人間関係の成功例
というようなイメージです。
もちろん、そういう関係を持てる人もいます。
だけど、すべての人が、そうした形を自然と持てるわけではありません。
- ライフステージが変わるごとに、人間関係が少しずつ入れ替わる人
- 特定の「親友」ではなく、テーマごとに安心して話せる人が分かれている人
- 少人数と深く関わるより、多くの人と浅く広くつながるほうが自然な人
いろんなパターンがあって、どれも「間違い」ではありません。
大事なのは、
自分にとって心地いいつながりのかたちは、どんなものだろう?
と、自分側から問いを立て直すことです。
「親友がいない=自分はダメ」ではなく、
「自分は、ひとりにすべてを背負わせるより、複数の人と分担して本音を話せるほうが落ち着くタイプかもしれない」
という見方もできます。
「昔からの友だちと今もずっと一緒」ではなく、
「そのときどきの自分に合う人と出会い、少しずつ縁が入れ替わっていく」人生もあります。
「みんな」という幻想の物差しで自分を測るのをやめて、
「自分にとって、どんなつながり方が現実的で、心地よいのか」
「今の自分に必要なのは、どんな“一歩分”の変化なのか」
という視点に切り替えていくことが、孤独感に飲み込まれないための大切なステップです。
心と体の疲れが「つながりを感じる力」を奪うとき
ここまで、心の中のパターンや考え方のクセについて見てきましたが、「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚を強くする要素は、考え方だけではありません。とても具体的で、日常的なもの──たとえば、慢性的な疲れや睡眠不足、余白のなさも、大きく関わってきます。本来であれば、人と話したときの小さなうれしさや、会話の中でふっと感じた安心感は、心の中に柔らかく残っていきます。けれど、心と体がすり減っていると、そうした「いいもの」を受け取る余裕そのものがなくなってしまいます。表面的には同じ一日を過ごしていても、「疲れているとき」と「少し余裕があるとき」では、人とのつながり方や感じ方が別物になってしまうのです。
たとえば、仕事で限界に近い状態が続いていたり、睡眠が浅い日が重なっていたりすると、こんな変化が起こりやすくなります。人と会っている最中は、その場の空気に合わせて笑ったり話したりすることはできる。けれど、家に帰った途端、どっと疲れが押し寄せて、「あれ、なんだか虚しかったな」と感じてしまう。相手の言葉や表情を、本来よりも否定的に受け取ってしまい、「ああ、やっぱり自分はこの輪の中に深くは入れていないんだ」と結論づけてしまう。ほんの少し違和感のある出来事があっただけで、それを「自分が嫌われている証拠」のように感じてしまい、頭の中でぐるぐると反芻してしまう。こうした「受け取り方の偏り」は、性格だけで説明できるものではなく、単純に「疲れすぎている」という状態からも生まれます。
心身に余裕がないとき、人はどうしても「目の前の危険や不快なもの」に敏感になり、「ささやかな安心」や「小さな喜び」を感じとる力が弱くなっていきます。たとえば、同じ一言でも、仕事が落ち着いているときには「ちょっと不器用な冗談だったな」で済んだものが、疲れているときには「自分を否定された」と受け取ってしまうことがあります。同じように、友だちのちょっとした無反応や既読スルーも、心がすり減っているときには、想像以上に重く刺さってしまいます。「こんなことで傷つく自分は弱い」と責める前に、「今、自分の心はこれだけ消耗しているのかもしれない」と考えてみることも大切です。
また、日々のスケジュールが隙間なく埋まっていると、「感じる前に次の予定へ向かわなければならない」という状態が続きます。誰かと会って楽しく過ごしたとしても、家に着いたときにはもうクタクタで、余韻を味わう余裕がない。LINEでうれしいメッセージをもらっても、その直後には別のタスクに追われて、心の中に温度を残す前に流れていってしまう。そうして「良かった時間」「安心できた瞬間」が、自分の心の中にきちんと蓄えられないまま消え続けると、少しずつ、「自分の毎日には、ほとんど何も残っていない」という感覚が強まっていきます。本当は、つながりの種のようなものは日々そこかしこにあるのに、それを受け取り、噛みしめる余白がない──そのギャップが、「友だちはいるのに」という感覚を、より空しいものにしてしまうのです。
さらには、スマホやSNSに触れている時間の長さも、心の余白に影響してきます。心が疲れているときほど、私たちは無意識にスマホに手を伸ばしやすくなります。何となくタイムラインを眺め、動画をはしごし、気づいたら深夜になっている。それ自体が悪いわけではないのですが、「情報で心を埋める時間」が増えれば増えるほど、自分の内側で何が起きているのかを感じる時間は減っていきます。すると、「本当はさっきの会話、うれしかったな」「あの人のあの言葉に救われたな」といった、小さな感動に気づく前に、次々と別の刺激に上書きされてしまいます。結果として、「何か足りない」「満たされていない」という漠然とした飢えだけが残り、「孤独」という名前を与えられてしまうことも少なくありません。
ここで、一つ視点を変えてみます。もし、「友だちがいるのに孤独だ」と感じる自分を、「心が壊れかけている人」と見るのではなく、「ここまで無理を重ねながら、なんとか毎日をこなしてきた人」として見てみたらどうでしょうか。「人とうまくつながれない自分」ではなく、「本当は、人とのつながりを味わいたいのに、味わう余力を奪われている自分」として捉え直してみると、孤独さの意味が少し変わってきます。責めるべきは「自分の性格」ではなく、「ここまで自分を追い込んでしまった環境や習慣」かもしれない。そう思えるようになると、「人間関係をゼロからやり直さなきゃ」と焦るより先に、「まずは自分の心と体のほうに、少しエネルギーを戻してあげよう」という発想が出てきます。
たとえば、睡眠時間を30分だけでも増やすこと。仕事の合間に、深呼吸を数回すること。夜、スマホを見る時間をほんの少し短くして、温かい飲み物を一杯ていねいに飲むこと。こうした、ごくささやかな行動は、「つながり」とは直接関係がないように見えるかもしれません。でも、心と体の疲れがほんのわずかでも軽くなるだけで、人の表情を柔らかく受け取れたり、言葉の裏にある思いやりを感じ取れたりする余裕が戻ってきます。その余裕こそが、「友だちといる時間はちゃんと意味がある」「自分は本当にひとりぼっちではない」と実感するための、土台になっていきます。
大切なのは、「しんどさのすべてを、性格や対人スキルの問題にしない」ことです。心と体の状態が整っていなければ、どれだけ人間関係を工夫しても、どこかで限界が来てしまいます。逆に言えば、疲れを少しずつ手当てしていくことは、そのまま「つながりを感じる力」を回復させることでもあります。孤独感は、人との距離の問題であると同時に、「自分と自分の距離」の問題でもある。そう考えてみると、「休むこと」や「ペースを落とすこと」が、決してわがままではなく、長い目で見て人とのつながりを守るための行動なのだと、少しずつ腑に落ちてくるかもしれません。
今日から試せる「小さな一手」を積み重ねていく
ここまで、いろいろな角度から「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚を眺め直してきました。頭のどこかで、「たしかにそうかもしれない」とうなずきつつも、「じゃあ、結局自分は何をしたらいいんだろう」と感じているかもしれません。ここからは、今日からでも静かに試せる「小さな一手」を、いくつかの方向から整理してみます。どれも、いきなり大きく人生を変えるようなものではありませんが、少しずつ積み重ねていくと、数ヶ月、数年という単位で見たときに、「あの頃よりはだいぶ楽になったな」と振り返るための土台になっていきます。全部を一度にやる必要はなく、「今の自分でもやれそうだな」と思えるものを、ひとつかふたつ選んでもらえれば十分です。
まず一つめは、「孤独感を、ただの“気分”ではなく“状況”として書き出す」という方法です。ノートでも、スマホのメモでも大丈夫です。できれば、寝る前や、少し静かな時間帯を選んで、次のような問いを、自分に投げかけてみます。「いつ、どんな場面で、いちばん孤独を感じやすいだろう」「そのとき、心の中でどんな言葉が浮かんでいるだろう」「本当は、その場面でどうありたいと思っているだろう」。たとえば、「グループLINEで自分抜きの話題が盛り上がっているとき、『自分はこの中のメンバーだけど、中心にはいないんだな』と感じてさびしくなる」「休日に予定がないと、『誰かを誘ったら迷惑かも』と思ってしまい、結局一日中SNSを見てしまう」「仕事帰りにふとスマホを見て、『みんなは誰かとごはんに行ったりしているのに、自分はまっすぐ家に帰るだけなんだ』と感じて落ち込む」といった具体を書いていきます。
こうやって書き出してみると、「いつもなんとなくさびしい」だったものが、「特定の場面で、この考え方が出てきやすい」という、少し輪郭のあるものに変わっていきます。輪郭が見えてくると、「じゃあ、その場面でできる小さな工夫はあるだろうか」と考えやすくなります。たとえば、「グループLINEでの孤独感」が強い人は、情報が流れすぎる場所から一歩引いて、「一対一のやりとり」を少し増やしてみる。「休日の予定のなさ」がさびしさを呼びやすい人は、誰かを誘うハードルをいきなり上げるのではなく、「一人で行けるけれど、人の気配がある場所」に行ってみる。図書館やカフェ、街中のベンチ、小さなイベントなど、自分のペースで出入りできる場所は、思っているよりも多くあります。「いつ」「どこで」「何を感じているか」を把握すること自体が、孤独感に飲み込まれずに付き合っていくための第一歩です。
二つめは、「会話の中に“ほんの一行分の本音”を足してみる」という小さな挑戦です。いきなり大きな悩みを打ち明けようとすると、怖さが勝ってしまいます。でも、普段の会話の流れの中に、「いつもより半歩だけ深いこと」を混ぜるくらいなら、少し現実味が出てきます。たとえば、「最近どう?」と聞かれたとき、いつもなら「まあまあかな」と返して終わっていたところを、「まあまあかな。でも、実はちょっと仕事でつかれててさ」と一言だけ本音を足してみる。誰かの愚痴を聞いているとき、「わかるよ」と相槌を打つだけではなく、「自分も前に似た感じでしんどくなったことあった」と、自分側の経験を少しだけ差し出してみる。「実はさ」「本当は」と前置きしてから続けると、相手も「ここからは少し本音モードなんだな」と受け取りやすくなります。
このような「一行分の本音」は、相手との距離感を一気に変えるものではありませんが、「自分は、この人の前で少しだけ鎧をゆるめてみた」という事実を、自分自身に残してくれます。そこから「思ったよりちゃんと聞いてもらえた」「軽く流されたけれど、自分が本音を出したこと自体は後悔していない」という経験を重ねていくうちに、「本音を出すこと」に対する怖さが、ほんの少しずつやわらいでいきます。そして、ときどき現れる「ちゃんと受け止めてくれる人」を見つけやすくなります。そういう相手が一人でもいると、「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚の中に、「それでも、この人とは少し深くつながれている」という例外が生まれます。この“例外”の存在が、孤独感を少しずつ薄めてくれます。
三つめは、「ひとり時間を、責める時間から“自分に戻る時間”へちょっとだけ組み替えてみる」ことです。ひとりでいると、「誰からも求められていない」「自分には居場所がない」という考えが浮かびやすい人もいるかもしれません。そんなとき、いきなり「ひとりを楽しもう」と自分に言い聞かせる必要はありません。ただ、「ひとりでいる=自動的に自己否定が始まる時間」になってしまっているなら、その流れを少し変えてみる価値はあります。たとえば、寝る前の10分だけ、スマホを置いて、「今日、少しでもうれしかったこと」「誰かにしてもらってありがたかったこと」「自分が頑張ったこと」を、箇条書きで3つ書いてみる。大きな出来事じゃなくてかまいません。「コーヒーがおいしかった」「通勤電車で席を譲ってもらった」「あの仕事をなんとか終わらせた」──そんな小さなことでも、ちゃんと文字にして眺め直すことで、「自分は、今日もどこかで誰かとつながっていた」「自分は、何もしていないわけではない」という感覚が、少しずつ心に戻ってきます。
もうひとつ、ひとり時間の使い方として有効なのは、「自分を落ち着かせる“手を動かす作業”」を取り入れることです。難しい趣味である必要はなく、たとえば、簡単な料理をする、部屋の一角だけ片づける、好きな音楽をかけながら洗い物をする、紙にペンでぐるぐると模様を描いてみるなど、五感をゆっくり使う時間を少し作ってみます。頭の中で「どうして自分は…」と考え続ける時間が長すぎると、孤独感はますます濃くなります。逆に、手や体を動かす行為には、「今ここ」に意識を戻す作用があります。その間だけは、「誰かと比べる自分」も「過去の失敗を思い出す自分」も、少し遠いところに置いておくことができます。そうやって、ひとりの時間の中に、静かな安心の断片を少しずつ増やしていくことが、結果として人とのつながり方にも良い影響を与えていきます。
そして最後に、「しんどさの度合いを、自分なりの“目安”で把握しておく」ということも大切です。もし、「ほとんど毎日、『消えてしまいたい』という気持ちが浮かぶ」「仕事や学校に行けない日が増えてきている」「食事や睡眠のリズムが崩れ、生活そのものが回らなくなってきている」といった状態が続いているのであれば、それは「一人で抱えるには重すぎる段階」に来ているサインかもしれません。その場合は、信頼できる人に少し相談してみたり、専門家の力を借りることも視野に入れていいと思います。「友だちがいるのに孤独だと感じてしまう自分」ではなく、「ここまで一人でよく耐えてきた自分」として、自分を扱ってあげる。その視点を持てたとき、助けを求めることは「弱さ」ではなく、「自分のこれからを大切にするための行動」になります。
大きな一歩よりも、今の自分が踏み出せる小さな一歩を。孤独感が完全に消えない日も、きっとあると思います。それでも、「以前より少し、自分の気持ちを言葉にできるようになってきた」「前よりも、ひとり時間に自分を責める時間が減ってきた」「この人の前では、少し肩の力を抜けるようになってきた」。そんな変化を静かに重ねていくことで、「友だちはいるのに、どこか孤独」という感覚は、少しずつ、輪郭を変えていきます。すぐに答えが出なくても大丈夫です。必要だと思ったとき、またこのテーマのどこか一部分だけを取り出して、あなたのペースで一緒に考えていければと思います。

